宇高連絡船の歴史
- 1903年(明治36年)3月
- 山陽汽船株式会社設立。讃岐鉄道株式会社と共同で岡山−高松間に船車連絡輸送営業を開始する。岡山高松間の連絡船の始まり。
- 1910年(明治43年)6月
- 国鉄宇野線開通にあわせ、「国鉄宇高航路」開設。宇高連絡船の始まり。
就航した船は、「玉藻丸」(224トン、定員146名、速力10.6ノット)、「児島丸」の2隻。
- 1921年(大正10年)10月
- 第一次世界大戦後の貨物輸送需要増大にあわせて、貨車はしけが登場する。貨車航送の始まり。親船「松風丸」が3隻のはしけを曳いた。その後増強され最盛期には4隻の曳舟、14隻のはしけが1日3往復した。
- 1923年(大正12年)
- 宇高航路の旅客数増加にあわせ、「南海丸」(561トン、定員903名、速力13.8ノット)、「山陽丸」が就航した。
- 1930年(昭和5年)
- 増大する貨物需要に対応するため、10両の貨車を直接搭載できるディーゼル船「第一宇高丸」が就航する。
- 1942年(昭和17年)
- 関門トンネルの開通により、第3関門丸(493トン、貨車7両搭載可能、493トン)他、計5隻が宇高航路に転属する。船体外側中央に水車のような推進器のある外輪船。
- 1947年(昭和22年)
- 旅客と貨車を同時に運ぶことができる「鷲羽丸」(1456トン、定員1650名、貨車14両搭載、速力14.5ノット)、「紫雲丸」「眉山丸」が就航する。
- 1950年(昭和25年)10月
- 乗客を乗せた客車航送始まる。乗り換えのない点が好評だったが、事故発生時に危険という理由で後に中止され、本当に乗り換えなしで海を渡るのは、瀬戸大橋開通後まで待たなければならなくなる。
- 1955年(昭和30年)
- 紫雲丸と第三宇高丸(貨物専用連絡船)が衝突し、沈没。多くの犠牲者を出した。(紫雲丸事件)この事件がきっかけとなり、瀬戸大橋の構想が本格化する。
- 1961年(昭和36年)4月
- 第一讃岐丸(1828トン、定員1300名、貨車24両搭載、速力12.8ノット)就航。船内の近代化と自動化に力を注いだ。昭和50年3月9日まで運行された。
- 1966年(昭和41年)3月1日
- 伊予丸(3084トン、定員1800名(後に2350名に)、貨車27両搭載、速力15.25ノット)就航。この船は宇高航路廃止まで運行を続けた。
- 1966年(昭和41年)4月16日
- 土佐丸(3083トン、定員1800名(後に2350名に)、貨車27両搭載、速力15.25ノット)就航。この船は宇高航路廃止まで運行を続けた。
- 1967年(昭和42年)10月1日
- 阿波丸(3081トン、定員1800名(後に2350名に)、貨車27両搭載、速力15.25ノット)就航。この船は宇高航路廃止まで運行を続けた。
- 1972年(昭和47年)11月8日
- 初代ホバークラフト「かもめ」(22.81トン、定員52名、速力45ノット)就航。宇野−高松間をわずか23分で運行した。
- 1974年(昭和49年)7月20日
- 讃岐丸(3087トン、定員2350名、貨車27両搭載、速力15.25ノット)就航。この船は宇高航路廃止まで運行を続けた。
- 1980年(昭和55年)4月
- 二代目ホバークラフト「とびうお」就航。
- 1987年(昭和62年)4月1日
- 国鉄分割民営化。宇高航路はJR四国の受け持ちになる。
- 1988年(昭和63年)4月9日
- 瀬戸大橋線開通。宇高航路廃止。
讃岐丸はJR四国の観光船となり、他の船は売却された。
- 1996年(平成8年)
- 観光船として活躍してきた讃岐丸、終航。
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